第27回 在宅療養の精神性とは2018:07:04:05:48:35

産経新聞社 社会部記者 北村 理

ちょっと、面白い連載を始めた。 京都市内で在宅医療をやっている診療所の日記のようなものだ。 掲載紙面は、今のところ中四国版なので、大阪など近畿では読めないが、「暮らしの中の宗教観と在宅療養の現場」みたいな側面があるので、お遍路さんで知られる四国などには馴染みの風景がでてくる。

京都市の中心地といえば、少し前に、「京都ぎらい」などという本がベストセラーになるほど、ともすれば、なんだか独特の排外的な伝統をもっているかのように思われている。
しかし、この連載にでてくる風景は、信心深く、御所や各派の寺院に囲まれチリ一つない街角で、静かに暮らす人々の姿が描かれる。キリスト教徒が毎週、教会に集うような状況を思い浮べれば、なんとなくイメージできるかもしれない。
ひとことでいえば、「心によりどころ」をもつ人々の物語でもある。

あるシーンでは、診療中の医師の所に、長年がんの闘病を続けてきたご主人を在宅で看取ったばかりのご婦人から連絡がはいる。「主人を想って詠んだ歌が入賞した」という喜びの報告だった。こういった調子だから、医療現場のレポート的な話としては、治療の選択や痛みの管理がどうとかなどの場面や闘病生活の果ての悲しみの別れといったシーンはほとんどでてこないので、一風変わっているかもしれない。
生きるとはどういうことだろう?と、在宅療養する患者や家族、そして彼らを取り巻く、在宅医療の専門家たちが、互いに心を通わせ、考え続けている。そういう日々の暮らしが、ただ描かれていくだけなのだ。

こういった風景は実は、われわれが子供のころ昭和30年代にはまだあった。
私も、幼心ながら、おおばあちゃんを自宅の薄暗い畳の部屋で見送った記憶がある。
だから、本当は、病院で人生を全うする時代なぞ、日本人の長い歴史のなかで、ここ半世紀の出来事でしかないのだ。
京都の中心部には、半世紀以前の暮らしが残っており、それが、医療の現場として紹介される時代になったのはどういうことだろうか、この土地柄の特殊性なのか、ほかにも広がっていくテーマ性が見いだせるのか、これから連載を続けながら、考えてみたいと思う。

<2018/07/04 掲載>