第2回「病理医概論 後編」2014:07:06:22:52:06

がん専門病院 病理科 Dr. のりっくま

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前回までのまとめ
『病気の学問が病理学、がん概論は病理学』 ← だった

今回のまとめ
『菅野美穂』・『典型的な』・『病理医に優しいがん医療』

菅野美穂と病理医

病理医の一方の端には、おもに大学などにいて研究を仕事とする者、もう一方の端には、おもに病院にいて病理診断を仕事とする者がいます。前者をモルト、後者をグレーンとすると、ほとんどの病理医はそのブレンドです※1。わかりにくいたとえですね。要するに、比重のかけ方の違いはそれぞれあるけども、研究と診断の両方をする人が多いと言うことです。研究を主にする研究所や大学の病理医もある程度は病理診断をしますし、病理診断を生業としていてもなんらかの研究を全くしない病理医はまれだからです。

さて前回、『蜜の味』で病理医を怪演した菅野美穂を中心に、病理診断を行っている『病理医』に迫ります・・・と引いた以上、続きを書く必要があります。
『蜜の味』(フジテレビ、2011年木曜22:00)は病理学教室の教室員が鑑修についたドラマです。菅野美穂の役は優秀な病理学教室の准教授、研究をもっぱらとする病理医です。ドラマは菅野美穂、その恋人のARATA、ARATAの姪の榮倉奈々の3人の道ならぬ恋の三角関係の話です。その後の展開には全く興味がないので見てないですが、2話以降どろどろぐだぐだの展開が続いたそうです。
菅野美穂には『人付き合いが苦手なので臨床医ではなく病理医を選んだ』という極めてリアリティーが高い設定がつけられています。しかし、第一話の終わりで、見知らぬ親子が工事現場の事故に巻き込まれているのを乗っているタクシーから偶然見かけた菅野美穂がとっさに助けに入って適切な行動を取るというシーンがありました。ここでリアリティーが急落します。困っている人を見て心が痛まない心ない病理医は何割かしかいませんが、タクシーの窓から道端で起こっている事故に気がつく病理医はわずかしかいません。その人が優秀な病理医である確率はさらに低いでしょう。『密の味』の菅野美穂のようにまっすぐ人を見つめ一途か、人を見つめられないか,どちらかのタイプが私達の典型です。

理想的には臨床医は患者を巡る全てを診ます。症状や検査値だけではなく歩き方・しゃべり方・肌の色・受け答えの反応・話の内容・付き添いの気もちなどなど。判断に用いる情報の種類が多く、結論を出さねばいけない項目も多い。一方、病理医は顕微鏡の中を見ます。何百倍にも拡大して、様々なタンパクや繊維を染め分けて詳しく調べますが、レンズの中に見えること以外はせいぜい臨床医が依頼書に書いていることや放射線画像くらいしか見ません。即ち、病理医は処理しなければいけない情報源の種類は臨床医より遙かに少なく、一方一つの情報源から得られる情報の量はきわめて深く大きい職業です。
多彩な情報源に目を配ってイレギュラーにも対応する能力の高い人が病理医になってもかまいませんが、そう言う人は病理医になる前に臨床医になってしまいます。そもそも気が散って一日中顕微鏡の中を覗いたり出来ません。タクシーの窓の外のことに気がつくような人は向いてない職業です。
これを否定的に見れば、『周りが見えない』という評価になりますが、肯定的に見れば『特化して詳しく見る』と言うことになります。特化して詳しく見る人の性質として同じ作業を繰り返ししても厭ないという傾向があります。はっきり記載してしまうとアスペルガー症候群的な特徴です。医師は元々その傾向の強い人が多い職業ですが、その中でも特に抽出された者が病理業界に沈殿してきます。しかし、これは病理診断という、医療上重要で、膨大な知識が必要な業務の遂行上どちらかと言えば好ましい性質です。他にアスペルガー傾向として知られる、人(患者)より物(標本)に関心を持つ、特異な記憶力・感覚を有し、定型を好む・・・などなどは、病理医に求められる資質です。

顕微鏡を捨てて町へ出よう

さて、これまでは病理医の典型の話です。典型の人はたくさんいますが、人は社会的な動物です。根っこでは典型でも沢山修飾を受け、実際の表現型はことなります。
前回を読めば明らかなように医学の歴史は病理学が作ってきました。病気に関する学問が病理学であった以上これは当たり前のことです。私のタネ本である、『病の皇帝「がん」に挑む 人類4000年の苦闘』 S・ムカジーによると、化学療法の歴史も病理医がはじめたようです。白血病に対して抗がん剤療法を初めて敢行したのは病理医でした。1940年代の後半、ニューヨークの1病理医として顕微鏡を見て暮らしていたファーバーは葉酸が貧血に効果があるという報告を知り、これを治療に用いることを思いつきました。葉酸自身は失敗でしたが、葉酸拮抗剤は小児白血病の一時的な寛解という当時としては劇的な効果がありました。にもかかわらず、ファーバーは患者もろとも小児病棟から追い出されます※2。解剖室のとなりの部屋で治療を余儀なくされ、寒い日には病棟の暖房を止められても、助手と二人で周囲の無理解と闘いながら抗がん剤療法を続けるファーバーの姿がその本に描かれています。しかし、ムカジーの筆致から私の目に浮かぶのは、愚かでしっと深い小児科医の姿だけではなく、優れた発想があっても、周囲との協調に失敗するありふれた病理医の姿です。

いま、再び病理医は病院の奥深くで顕微鏡の前にただ座り続けるだけなのをやめ、前線に立とうという機運がでています。皆さんも、『病理外来』と言う言葉を目にする機会が増えてきていると思います。
病理外来では病理医が患者に直接病理学的所見や病理診断について説明します。患者は普通主治医から病理診断結果を聞きます。しかし、病理診断そのものについて詳しい説明が出来る臨床医は少数です。そのため、患者が自分の疾患について正確なイメージを持てない事があります。よく臨床医が、「がんだと診断したのに患者が治療に納得してくれない」とか、「重要な事態だとわかってくれない」と私達にぼやきます。おそらく現物を見せて病理医が説明すれば、患者が自分の状態に対する正しい認識に近づくことに役立つケースは多いでしょう。新しい病理医の仕事として病理学会では力を入れています。患者と直接接しないことが病理科標榜の障害になったことに対する反動かもしれません。

しかし、これにはいくつか問題があります。まず、推進がやや強引な点です。雑誌やネット等で『欧米では治療に関する意思決定にあたって、病理医が患者に直接病理診断を説明してくれる』という記事を目にしたことがあるかもしれません。これはよくある『出羽の守』※3の嘘、真実を一部しか語らないというタイプの嘘です。実際にUSAの一部の大学病院でこのようなサービスが行われているらしいですが、欧米(USAやUK)の医療の実態を知っていれば、全ての人が標準で受けられるサービスではなく、大金を払う一部の人だけの特権だと予想できるはずです。
これまで、病理業界は典型的な人材が豊富でした。彼らに標準的な手順の提示や研修会無しでいきなり患者の相手をさせるのは不安があります。多くの病理医は平和的で追い込まれない限り害のない人達ですが、事例によっては、外来をやる側にも、受ける患者側にも大きなストレスとなるでしょう。ファーバーの例の様にせっかく役に立つことをしようとしても、無理に外来に出て行けば喋る内容について臨床医との軋轢が生じる可能性もあります。
また、病理外来はその後の投薬治療がないため保険診療としては単に初診料を取れるのみです。適切な価格設定が必要でしょう。

うだうだ書きましたが、私は病理外来に別に反対ではありません。日本は世界に名だたる皆保険保国です。人口あたりの病理医の数がアメリカの1/5という問題はありますが、必要なことであれば、欧米で出来ないという理由であきらめる必要はありません。
これから、病理医に求められる資質は、単に深く狭くこだわり、同じ業務を繰り返す事をいとわないと言うだけではないと思っています。基本的に病理に向いている人の気質はそうですが、今では、病理診断や検査科・病理科の業務調整管理にとどまらず、院内外の様々な局面で、病理医の活躍が求められます。病院ほとんどの科と関わりがあり、一つの病院に長く在籍することが多く、多くの臨床科と直接利害が衝突しない医者である病理医は実は院内の多くの場面で活躍可能です。そのためには広く協調を要することも行わなければいけません。それには人と話すのが苦手で執着が強すぎる菅野美穂をふって、病理医の典型を変えていかねばならないでしょう。病理外来が病理医の人材の幅を広げる役に立つかもしれません。

現在、いくつかの施設で病理外来が設けられています。そこの病理医がどう言う対人能力を持つのか、経験を持つのか、研修を受けているのか・・・現状ではよくわかりません。広く病理外来が一般的なサービスとして日本で根付くには、患者の前に出る前に研修と資格試験が必要だと思います。しかし、現在そのようなものはありませんし、あっても殆どの病理医は患者さんの立場から見たら、『人前で話すのは上手ではない』レベルかもしれません。イレギュラーな質問には対応できないかもしれませんし、偉そうかもしれません。しかし、まだ彼らは巣から出てきたばかりで、まだ殻をかぶっています。そういう機会があれば、新しい病理医の役割のために、皆さんの方が逆に患者を診るような思いで、温かい目で見てやってください。

さて病理医概論は2回で終わりにつもりでしたが、病理医の描写に必要以上に力が入ってしまいました。次回は、その病理医が行う『がんの病理診断と解剖』の話です。実際に現実の病理医の仕事、がんの病理診断の話を書く予定です。

 

※1:俺たちの方こそモルトだという人もいるかもしれませんが、単なるたとえなので却下します。勝手に読み替えてください。
※2:その当時の『インフォームド・コンセント』や『患者の権利』は今の時代とは異なるし、患者の権利なんてあんまり考えられていませんでした。
※3:自分の話の枕に『アメリカでは』、『欧米先進国では・・・』とつけて権威付けして好き勝手なことを言うのは、日本のチシキジンの常例でした。ちょっと根拠が薄弱なときに使う手法です。これを称して、『デワのカミ』と言います。最近では世界が小さくなったのでなかなか目にする機会は減っています。

<2014/07/13 掲載>