第12回「大切なことでふだん忘れていること(3)」2013:09:29:18:22:25

産経新聞社 社会部記者 北村 理

東北の某所―。子供を亡くした母親と若いお坊さんが話しをしていた。
阪神大震災を取材していたころ、予期せずして急に家族を亡くした場合、子供を亡くした母親のケースが、心の傷がとりわけ深いときいたことがある。
お坊さんとその母親の会話をきいていると、どうやら、そのケースに該当するらしい、ということは分かった。
母親は「どうしてあの子が」と逡巡しているといい、これに対して、じっと耳を傾けていたお坊さんはこういった。
「あなたが命がけで生んでくれたことに感謝していますよ」と。

この「命がけ」ということを、現代人は、なかなか実感できなくなっているのではないか、とひごろから感じている。お産すら、医療介入が過ぎて、「命がけ」のお産の風景が日常から失われて久しい。もっとも「命がけ」のお産にしたくないから過剰な医療介入をするのだが。

「命がけ」ということは、命を落とすかもしれないという恐れを感じる反面、最大限に命が跳躍するということでもある。
この欄で紹介してきた、東日本大震災で岩手県釜石市の子供たち約3000人が避難した「釜石の奇跡」。その後の子供たちの心理状態がまさにそうらしい。ある女子高校生は、女子ボクシングを始め、将来は宇宙飛行士にと言い始めた。釜石の子供たちのこうした例は枚挙にいとまがないという。

ところで、厚生労働省が、終末期医療の選択等をアドバイスする相談員を育成、配置する計画だ。ちょっと違和感を感じている。もちろん、ケース・バイ・ケースなのであろうが、ノウハウの選択で、人生を全うできるのだろうか。
前述のお坊さんによると、お坊さんが住職を務める地域では、心のケアの相談員の配置を断わったらしい。「生死にかかわることは本来は宗教者の仕事」とお坊さん。

ちかごろは何でも言葉にしたがる。白黒つけたがる。ただ、黙って、祈りを捧げることしかないときだってあるじゃあないかと思う。
世の中、カウンセリングばやり。人間いかに生きるべきか。道筋がみえにくくなっているから、次から次へと「悩み」を生産し、○×ケア、△□カウンセリングというワッペンをベタベタと貼り付ける。どのケア、カウンセリングを選択するかでまた悩む。
もういっさいがっさいそんなこだわりをすてて、まあるい頭のお坊さんの前で、ひがないちにち座禅をくんだほうが、よほど心身の健康にいいのではないかと思うのだが。

<2013/09/29 掲載>