第10回「大切なことでふだん忘れていること(1)」2013:06:25:09:49:04

産経新聞社 社会部記者 北村 理
 
「ばっかじゃあないの!」と罵声を浴びせられた。
先月29日、南海トラフ巨大地震対策の発表の翌日、東京・国分寺の助産院でのこと。
東京へ何しにきた?というので、「テレビでやっていた地震の会見」といったとたんに冒頭のシーンとあいなった。テレビでは、対策の紹介というよりも、本来会見のサブテーマであった、予知できるかいなか、ということに焦点をあてていたのだ。
 
その場にいた助産師たちは、「予知なんかできるわけないじゃない。そんなものに期待してないよ。それより、どれだけ事前の対策がどれだけできるかでしょう?」というのである。しごくまっとうなご意見である。一方的に攻められた私は「そういう論調にならないために、大阪からわざわざきたんです」と反論、幸い理解はえたが、そうくるか、という反応には驚いた。
 
助産師が主張した「事前防災」は、阪神大震災以降19年間議論されてきたが、東日本大震災をへて、ようやく国の政策の柱となった。その、専門家や政府のお歴々が19年経てたどりついた結論を、助産師たちは一瞬にして看破した。
 
なぜか?お産は究極の予防医学だからである。お産は想定外がまま起る。ある意味、自然現象と同じである。だから、元気な子供を産むために、出来る限りの予防措置に尽力するのである。そのために、助産師たちは医学的知識・経験・女性の知恵を総動員して、妊婦のケアをするのだ。国分寺の助産院は国内でも最大規模の分娩数の実績をもち、それゆえに、24時間365日フル回転している。もちろん、ときには病院搬送も必要となるが、この東京・多摩地区では、助産所と地域の病院が勉強会を定期的に開いていて、妊婦の不安をどうやわらげるかという問題意識を共有している。
 
お産の主役は、助産師や医師ではなく、妊婦なのである。そのことを彼らは熟知しているからこそ、自分たちがどう妊婦をコントロールするかというよりも、妊婦の出産機能に支障がきたさないように、一歩さがってサポートすることに徹するのだ。
 
これは、がんの在宅ネットワークも全く同じ機能をもつべきものであろう。実際に、がん患者をみる訪問看護を訪れると、助産所と同じ〝臭い〟がする。
 
ところで、先日、某放送局のドキュメントで、知人の居酒屋の店主がでてきた。彼は、奥さんをJR福知山線の事故でなくしている。奥さんが発見されたとき、「顔が倍にはれていて、判別できなかった」らしい。どうやって彼は奥さんと認識できたか。生前の奥さんを思ったとき、ただひとつ、おもいあたる彼女の表情があった。「立ち会い出産で、いきんだ彼女の表情に(遺体)が似ていた」。
 
ひるがえって鑑みると、女性は出産のときに、命がけなのである。生死の境というのは、人間がコントロールしえない自然現象そのものなのだ。そのことを、助産師たちは身を以てしっている。
 
だからこそ、冒頭のようなエピソードが生まれる。防災研究者や役人、政治家これらはほとんど、恐らく、立ち会い出産(米国は8割超、日本・韓国2割弱)もしたことのない、「おっさん」(性別は女性であっても)たちなのである。つまり、唯一、現代社会の生活のなかで自然を感じる貴重な経験を放棄しているため、どう自然と向き合えばいいのかわかるはずはないのだ。
 
こうかんがえると、東日本大震災の死者2万人という被害は、自然の驚異などではなく、人間社会のもつ構造的な破綻の結末である。医療崩壊などといわれるものも同根ではないかと思われるのだが。
 
<2013/06/25 掲載>