第5回「第4章 病を得て」2013:02:22:22:00:00

近畿大学学長 塩﨑 均

衝撃的な映像
医者の不養生という言葉があります。そういうことにならないためにも、私は毎年、胃の検診を欠かしたことはありませんでした。といえば聞こえはいいのですが、実は毎年、研修医の胃カメラの実験台となっていたのです。

研修医による胃カメラは、なかなかの苦行です。たいていの場合、結局はどうにもならなくなって最終的にはベテランに代わってもらうことになるのですが、おそらくたどることになるであろう事の次第の展開をよく知っているだけに、最初は特に恐怖にかられます。けれどもこれも研修医へのご奉公だと思い、毎年欠かしたことはありませんでした。

ところがある年、1年間その検査ができなかったことがありました。その年は病院長に就任したばかりということもあって、多忙をきわめていたのです。1回検査の間隔をあけると、次の検査は2年後ということになってしまいます。ちょうど2年後にあたる年の10月にPETセンターがオープンすることになっていました。

私が病院長を務めていた病院は、がん治療の分野ではひじょうに高い評価を得ている病院で、PETセンターも実はがん治療のさらなる精鋭化を目指し、病院長に就任すると同時に申請していたものでした。申請後、2年を経て実現するPETセンターには最新鋭の機器が導入され、10月1日のオープンを前に、9月の段階でまずテストをしてみようという運びになったのです。

PETについてはご存知の方も多いかもしれませんが、知らない方のために簡単に説明をしておきましょう。体の細胞は活動するために、多量のエネルギーを消費しています。がん細胞は正常の細胞よりも分裂がさかんに行われているために、ブドウ糖をたくさん取り込んで消費するのです。

そのため、ブドウ糖に放射性物質をくっつけた液を静脈から注射すると、がんの病巣にたくさん集まります。その様子を撮影するのがPETという装置で、PETを使用すると、がんがどこにあるのか、大きさや性質、転移の有無などもはっきりわかるのです。

オープンを目前に控えた9月20日のこと、PETがうまく作動するかどうか試してみようということになって、私がまず最初の実験台になりました。そしてそこには衝撃的な映像が映し出されたのでした。

いかに生きるか
モニターに映ったのは、転移したがんでした。もともとは胃がんだったのですが、すでに転移がかなり進んでいて、ちらばったがんがまぶしく光を帯びて撮影されていました。胃がんそのものはそれほど大きくはありませんでしたが、転移の様相から進行性の悪質のがんであることが一目で見て取れました。

私は消化器がんの専門家です。これまでこのような状態の患者さんを数えきれないくらい治療したり手術してきて、この映像がどういうことを意味しているのか、経験として熟知していました。これは100人手術をして、そのうち助かるのは2人か3人というくらいの厳しい、それもきわめて厳しい状況である、と。

これは覚悟をしなければならない。私の頭に浮かんだのはまずそのことでした。100人のうち助かるのは2、3人ということは、2、3%しかない可能性にかけなければいけないわけです。常識的に考えても、相当の覚悟が必要なことは火を見るよりも明らかでした。

人生において、人の死に際というのはひじょうに重要な意味をもつということは、かねてから考えていたことでした。私の中には日本の武士道に共鳴できる部分が多分にあって、いかにきっぱりと死を受け入れられるか、死に様は人生の最後を飾るきわめて重要なエレメントであると理解していました。実際に医療の現場でも、末期がんの患者さんをいかに尊厳をもって旅立たせてあげられるかについては、常に注意を怠らなかったことのひとつだったのです。

けれども不思議なことに、自分の寿命が限られたものであることを悟ったその時、最初に考えたのは「いかに死ぬか」ということではありませんでした。いかに死ぬか死に際を想定するのではなく、残された命を「どう生きるべきか」ということがまず頭に浮かんだのです。

「いかに死ぬか」ではなく「どう生きるか」。それは結果的には、同じようなことであるかもしれませんが。わずかな時間の後に死を迎えなければいけない運命なのであれば、それは大した相違ではなかったかもしれない。

しかし私の気持ちの中では、両者ははっきりと違っていました。意識として明確に、「死ぬ」ことではなく「生きる」ことを選択したのです。

究極の選択
考えてみればきわめて皮肉なことでした。自分が専門とする消化器のがんに罹患しており、なおかつそのがんは、導入したばかりのPET撮影第1号の被験者として見つかったのです。運命のいたずらというにはあまりにも運命的な展開でした。

しかも事態は、これ以上ないというくらいにきわめて厳しい状況だったのです。それまで毎年行っていた検診を1年あけたことが悔やまれました。もしきちんと検診を受けていれば、もっと早期に発見することができたかもしれなかったのです。

後輩である胃がんの専門医F医師に、私であることは伏せて映像を見せたところ、彼は即座に答えました。「この患者さんはもう手遅れですね」と。

食道がんのスペシャリストとしての自分の判断と、胃がんの専門医の判断が一致していました。つまり、通常の治療を行えば、私の人生のカウントダウンはすぐそこに迫っているはずだったのです。

まず私の頭に浮かんだ考えは、「何も治療をせずに、残された人生を元気に生きよう」でした。家族にも、自分の身体の状況を伝え、自分の意思を伝えたことを昨日のように思い出します。

しかし、人というのは面白い生き物です。次の日には、「外科医として歩んできた自分の人生は、がんに打ち勝つ努力をするべきではないのか」という気持ちが生まれたり、また次の日には、「自分の人生の最後にすべてを中途半端で投げ出すことが、今自分がしたいことなのか」という気持ちが生まれたりと、毎日毎日自分の考え方が変わってくるのです。

これまでの人生では、何か問題が起きると、すぐに決断し、できるだけ早く対処するように訓練されてきたものでしたが、このときはじめて、本当に大切なことを決断するときには、1週間なら1週間という時間を、決断に要すること費やすことの重要性を知ったのです。

結局、私が最後に下した私の人生の選択は、「自分が今まで培ってきた知識や技術を総動員してできることはやってみよう」というものでした。わずかな生存の確率になんとかして打ち勝つための手立てとして、何かを残せないだろうか。

そこで私が行ったのは究極の選択でした。当時はまだ行なっていなかった治療方法を試してみようと考えたのです。それはそれまでに胃がんに対しては使ったことのない放射線と抗がん剤を手術前に使用する方法で、当然のことながら、放射線科のN教授はしり込みしました。けれども、私の気持ちの中では、方法はもうそれしかないと決断していました。自分のことを自分で決めたのですから、責任問題で誰かに迷惑をかけることもありません。

幸いなことに、その時も運は私に味方してくれたようでした。最新鋭の放射線機器が導入されたばかりだったのです。今回のことでもしその放射線に効果があることが実証できれば、今後の医療にとっても大きな貢献になるはずです。不思議と、効果が得られなかった場合のことはあまり頭に浮かびませんでした。ただ淡々と、その時の自分に考えられる、最良と思われる手段を考えただけでした。

執刀医についても、考慮が必要でした。かつて自分が、当時の教授の食道がんの執刀を言い渡され、それは名誉でもあったと同時に、一人の医師としては苦しい立場も経験したことを思えば、私の部下から執刀医を選ぶことは憚られました。そういう事情もあって、執刀は自分が最も信頼する他病院の後輩F医師に委ねました。
 
「桜」と「生」
がんが見つかったのは、9月下旬のことでした。これは覚悟が必要だと思ったその時、同時に脳裏をよぎったのは、来年の桜はもう見られないかもしれない、という思いでした。 

それまで桜は、私の心の中ではほろ苦い思い出のある花だったので、どちらかというとあまり好きではありませんでした。なので来年の桜に思いを遣ることなど自分でも思いがけないことだったのです。

かつて私は大阪大学の医局に勤務していて、1970年の万国博覧会会場跡地に植えられた桜は、私にとって一番身近な存在でした。桜の花咲く春は、人事異動の季節でもあります。当時の私は新たな道を見出すことができず、悶々とした日々を余儀なくされていました。

ああ今年もまた新たな展開ができなかったという思いは、爛漫と咲き誇る桜の花の華麗な姿とはあまりにも対照的であり、花開いた姿が美しければ美しいほど、私の心に重苦しい影を投げかけるのでした。

そんなほろ苦い思い出を思い起こさせた桜を、もう一度見られないことが悲しく感じられるなど、健康な時の私ならばおそらくあり得ないことでした。桜の持つ生命力への羨望でもあったのでしょうか、自分でも気づかないまま、「生きる」ことへの執着が芽生えていたのかもしれません。

春を待つ心
いつになく弱気になって「来年の桜」に思いを馳せている私を見て、妻は思いがけない行動に出ました。

その頃の私は、術後2日目から水分を開始するも、術後4日目にはその水もまったく身体が受け付けない状態になってしまいました。自分で看護師さんに頼んで、鼻から胃液を出してもらったりもしました。胃がまったく働かない状態に陥ってしまったので、それから点滴の毎日が始まりました。術後の経過を何千何百とみてきたという経験と、合気道で鍛えた身体と精神で、乗り越えられるとどこかで信じていた気持が、日を追うごとに薄らいできたように感じていました。

年の瀬も迫ったある日、そんな私の状況を見るに見かねた妻は、なんと、正月の間の外泊を申し出たのです。絶対安静....といった状況で、自宅に連れて帰ろうというのです。はじめは私も驚きましたが、妻の強い気持ちに押され、1週間分の点滴を準備してもらって自宅に帰ってきました。

正月でもあり子供たちも全員が帰宅して元気な姿を見せてくれました。自宅に帰ってからも、食べ物どころか水さえもまったく受け付けない状態の身体で、体重がどんどんどんどん減っていました。そんな中、妻が明るく「大好きな日本酒なら飲めるんじゃない ? 」と、水も受け付けない私に酒を勧めてきたのです。

おそるおそる飲んだお湯で薄めた日本酒は、不思議と私の身体に吸い込まれていきました。その後、徐々に食べられるものが増えていき、少しずつ身体が回復に向かっていきました。その日本酒が、私の身体が回復に向かう転機を与えてくれたのでした。

すべての責任をとるつもりで外泊を申し出た妻は、表面的には穏やかに過ごしていましたが、いったいどれほどの不安と闘っていたのでしょう。不安や心配は一切表に出さずに、私の身体の状態をそばでみて、突飛なアイデアでいつも私を支え続けてくれた妻らしい愛情だと感じました。

そんな妻らしいエピソードがもうひとつあります。チューリップの球根を山のように買い込んできて、庭いっぱいに植えたのです。それは知らない人が見たら、どうしたのかと思われるほどの数でした。そして、それは、もしかしたら見られないかもしれない「桜」に代わるものとして、妻が私のために考えついた「共に迎える希望」なのでした。

奇跡の生還
あれから3年半の時間が経過しました。いくつもの幸いが重なって、奇跡的に私は生還を遂げることができたのです。一か八かで試してみた放射線も無事に功を奏し、抗がん剤も効率よく効いてくれました。執刀したF医師でさえ驚きを隠さないほどがんは見事に消え、転移も消失してくれたのは本当に幸運なことだったと思います。

「いかに死ぬか」ではなく「いかに生きるか」。あの時巡らせた一連の思いは、当時とはまた違った感慨となって私の頭の中を巡るようになりました。それは、「もはや何の悔いもない」という思いです。この先たとえどんな事態が起こることがあっても、どれほどのできごとに直面したとしても、私はもう二度と後悔することはないと思うのです。

もう余命はないと覚悟したあの時に、心のどこかで「何も欲しいものはない。今のまま生きられればそれこそが幸せなのだ」と思う気持ちがありました。「もう一度今までのような生活を続けたい。ただ今までの生活を失いたくない」。

幸い願いがかなって、今はいわば二度目の人生を送っているようなものなのです。それゆえ、今の日々を悔いなく送れるのでしょう。うれしいことに今のところ、桜もチューリップも毎年堪能させてもらっています。

患者の立場
病を得て、実際の医療に思わぬ形で役に立つこともありました。私の場合、胃を切除していることもあって、回復後の食事にも若干の制約があります。たとえば、昼食と夕食は大きな問題はないのですが、朝食はあまり食べられません。パンなどもできれば避けた方が調子がよく、お粥だと消化もずいぶん楽なのです。

患者さんというのは、言わないけれども困っていることというのがあります。食事のことなども、診察には関係ないことと遠慮しているからなのか、あまり聞かれたりすることはありません。

けれども、診察の折などにちょっとそのようなことにふれ、「もし調子が悪いようならこうしたらどうですか」などとアドバイスしてあげると、大変に喜ばれるのです。単なる知識ではなく私自身の経験談なので、ある意味では説得力もあるし患者さんも安心させてあげることができます。

先日の新聞に末期がんの患者さんと医師に対する興味深いアンケートが報道されていました。患者さんの80%が生きるために闘いたいと思っているのに対し、医師ではそう考えているのは20%にすぎないと。

「どのように死ぬか」ではなく「どのように生きるか」を患者さんとともに考えるが医師の役割ではないでしょうか。病気になって得た大きな成果のひとつです。

<2013/2/22 掲載>

(2009年 株式会社 悠飛社発行 塩﨑 均著 「天を敬い、人を愛する」より著者のご厚意により転載させていただいています。)