第3回「第2章 医学の世界へ」2012:08:10:19:35:01

近畿大学学長 塩﨑 均

合気道との出会い
大学に入学して故郷の新宮をあとにし、大阪で暮らすようになった時に感じた第一印象は、すべてのものが輝いて見えるということでした。それはそれまで私を束縛していたすべてのものから解き放たれたという、一種の解放感の現れであったかもしれません。ともあれ都会は、故郷では見ることのできなかった光に満ちていました。
加えて幸運なことに大学では、私自身の気性や特性を存分に発揮することのできるクラブ活動が私を待っていました。合気道です。
武道の中には、空手、剣道、柔道などさまざまな種類があります。けれどもそれらはみな、動きが直線的であるという特徴があるのです。たとえば空手にしても剣道にしても、相手と一対一になって戦わすのは「突く」とか「打ち込む」などの直線的な動作です。お互いの力は真っ向からぶつかり合うので、相手の力をまともに被ることを避けることはできません。
ところが合気道の基本原理はあくまでも「曲線」で、すべての所作は円を描くようなイメージがあるのです。その曲線の中に、合気道の世界観がつまっていました。つまり、真っ向からぶつかり合う武道と違い、まずは相手の力、動き、気持ちを読み取り、相手の気に自分の気を合わせることによって、その場を制するのです。それは、勝つか負けるかを追求する武道とは一線を画し、相手との気と気のやり取りの中で自分の立ち位置が存在することを理解し、その空間を制することを目指すものでした。
たとえ生まれ持った体格や力が非力であっても、相手に対応できる合気道の原理はある意味でひじょうに理論的で、私自身のものの考え方にとてもマッチしていました。また、身体を鍛える中で、精神的にも鍛えられていく感覚によって、少しずつ自信につながっていくことを体感していたのかもしれません。
また、これはどの武道にも共通していることですが、「礼に始まり礼に終わる」という所作からもわかるようにきわめてストイックであり、無駄なものがすべて排除された洗練された世界は一種、哲学的であるともいえました。その理論性と哲学性の両方が相俟って私を魅了し、瞬く間にのめり込むようになっていったのです。
当時はまだ創設間もない部活動で、練習のための施設もままならないような状態でした。けれども学部を問わず集った30人弱の部員たちは、道場まで遠距離を通ったり少ない部員で試合に臨んだり、苦楽をともにし続けました。文字通り同じ釜の飯以上の存在の彼らとは、今でも旧交が途切れることはありません。
心血を注がんばかりに熱中したその合気道部は、2008年にめでたく創部40周年を迎えることができ、私も初代OB会会長としていまだに縁が切れずにいます。

自信を持つことの強さ
故郷の町で過ごした高校時代までは、自らが勝手に作り上げた劣等感の殻に閉じこもり、さらにまた自分が閉ざされた世界の住人であることさえ自覚できずにいた日々でした。
けれども大学進学と同時に環境が変わり、それまでとは違った視点や物差しで物事が見られるようになると、どれほど自分の考え続けてきたことがばかげていて、どれほど自分がつまらない時間を過ごしてきたかということが、いやというほどよくわかるようになりました。
合気道との出会いは、とりわけ私が生きていく上での自信を深める大きな要因となったといえるでしょう。故郷の町で生き物と戯れて過ごした少年時代は、都会で育った人たちとは比べ物にならないような俊敏さを私の内に培っていました。そんな力が自分の中にあることさえ知らずに始めた合気道は、理論的な原理に基づいていたこともあって私の気持ちによくマッチし、私は思う存分自分の力を発揮することができるようになったのです。
そしてそうやって自分の力を解き放つことができるようになると、すべてのことが今までのようなマイナス面ではなく、プラスの方向に好転していくのが感じられました。ひとつのことがうまくいくようになると、すべてのことが好転するという循環の摂理は、こんなところにも作用していたのです。委縮することなど何もない。そう思えることは、それまでの私にとっては、考えられないような大きな転機となりました。
人間というのは本当に繊細な生き物です。不安な気持ちで取り組むとこなせないような物事が、自信と一緒だと難なく乗り越えることができる。合気道だけではないさまざまな局面において、私は前向きに、そして意欲的に向かい合うことができるようになっていきました。
合気道の方はのめり込むあまりに、一時期は医師になるのをやめてそちらの道へ進もうかとまで思うこともあったのですが、ちょっとしたことで腰を痛め、念願は惜しくもかないませんでした。

外科という選択
開発途上国へ行って自分の技術を役立てたいと考えたのが医師を目指すもともとのきっかけであったので、専門は外科を選択しました。世界中どこへ行っても役立つものとして、それなりの技術の習得をしておきたいとは思っていたのですが、それ以上のことはあまり考えていませんでした。
それよりも深刻だったのは、当時の社会情勢でした。おりしも時代は学生紛争真っ只中とう背景であったので、全国の大学が荒れに荒れており、私も1年生の時からデモに参加したこともありました。1年上の学年などは卒業式もとり行われず、我々にしたところで入局するか拒否するかなどといったことで、論争をくり返していたような時代だったのです。
しかしありがたいことに、息巻く学生たちとうまく話し合いをもち、きちんと卒業し国家試験を受けるよう説得することで学生たちを導いてくださった先生がおられました。当時の医学部長のY教授です。

教えを受けた先生方
Y先生
卒業当時の医学部長です。内科の教授でおられ、ひじょうに講義がお上手で洗練されていました。ひとつの病気についての臨床、診断、治療など説明が具体的でわかりやすく、それまで聞いたどの授業よりも印象深いものでした。ものの考え方もきわめて整然とされていて、世の中を構成しているのは天、地、人、の三要素で、天=天命を知って、地=地に足をつけ、人=社会に貢献することが人の使命であると諭されたその教えは、今でも忘れることはありません。学生運動に走りがちだった学生たちを諌め、諭し、本来の本業へと導いてくださいました。

J先生
当時日本の外科の三本柱の一人と呼ばれた先生で、私が最初に入局した時の教授であられました。個性的で破天荒ともいえる存在で、思考回路はひじょうにユニークだったといえるでしょう。教えを受けた当時はまだがんの手術に関してもエビデンスが確立しておらず試行錯誤の時代でしたが、がん周辺だけを狭く小さく摘出するのではなく、再発防止のためには系統的に拡大廓清することが必要であることを提唱されました。
後の項目で述べる私のドイツ留学の直前には、こんな思い出があります。今のようなインターネットなどない時代です。事前のリサーチなどする術もなく、ドイツへ行くのはいいがその後はどのようなことが待ち受けているのか不安に思っていたところ、朝の6時にJ先生からお電話をいただきました。
先生はすでに大阪大学を退かれ近畿大学へ籍を移されていたのですが、ドイツへ出かける私のことを心にとめておられ、「向こうにはこういう日本人の先生がいるので頼るように」とおっしゃるのでした。ありがたくも忘れ得ぬ思い出のひとつです。

K先生
学位論文のご指導をしていただきました。ひじょうに真面目で紳士的、清廉潔白なお人柄であられました。私のみならず多くの研修医の論文に目を通されるのにもかかわらず、グラフや表の細かな数値すべてをチェックされており、そんなところにも几帳面な一面がしのばれます。K先生には教授の責務を学びました。

O先生
強烈な個性の先生で、「医者である前に一人の人間であれ」というメッセージは若かった私には鮮烈なものでした。手術においては誰もが認める名手であり、絵や焼き物を愛する芸術家でもあられ、精神的にも強い影響を受けたものでした。私の人格の何分の一かは先生に負うところがあるかもしれません。

M先生
私が医局長としてお仕えした教授です。俳句や和歌をたしなまれ趣味の世界を大切にされる風流人で、休みの日に早起きされてお風呂の中でお酒を召し上がるのを無上の喜びとされておられました。
先生にはすべてのことにわたり、本当にさまざまなことを教えていただきました。なかでも医局の人事を采配するその考え方は、常に個人の生活事情を基本に考慮されるものでした。徹底して教え込まれたその細やかな配慮と思い遣りは、現在でも人事を考える際の私の方針の根幹をなしているといえます。
私が講師であった頃、食道がんに罹患され、その執刀を委ねられました。自分の教授の手術を担当することは大変な重責ではありましたが、先生の厚い信頼に応えたい一心で手術に臨みました。手術前夜、病室にお見舞いに伺い睡眠薬の処方をお尋ねすると、「いらない」と答えられて冷蔵庫から焼酎を出してこられました。お酒をこよなく愛した先生らしいエピソードではないでしょうか。
後年、肺炎に罹られて看病をさせていただきましたが、先生の言いつけに背いたことがひとつだけあります。それは「人口呼吸器にはつないでくれるな」という先生の厳命でした。
それががんの転移なら、私も諦めることができたかもしれません。けれども、相手は肺炎、いうなればたかだか炎症です。うまく薬さえ効けば治る病気なのでした。私は先生のお気持ちを知りながらもなお諦めることができなくて必死に奥様を説得し、人工呼吸器の治療を許していただいたのです。
結局先生は亡くなられたのですが、たとえ先生の言いつけに背いてでも、可能な限り命を永らえていただいたことは、私の精一杯の恩返しだと思っています。

O先生
天才タイプの先生でおられました。学位取得のための研究論文の指導においても、大学院生にテーマを与える時にはすでにその結果を想定しておられるという、賢明さと周到さを備えておられました。鋭い頭の切れにおいていつも圧倒される先生で、自分自身の肉体面、精神面を厳しく律することのできる最も尊敬している先生です。

ドイツ留学で得たこと
1978年にドイツのハイデルベルグに留学しました。ドイツで学んだのは私の専門である外科ではなく病理学だったのですが、この経験はのちのちの私に大きな影響を与えることになったのです。
病理学というのは、病気の原因や発生のメカニズムを解析する学問です。華々しい外科とは違って、顕微鏡相手のどちらかというと地味な領域です。しかし、こうした病気の本質を理解した上でメスを握るのと、そうではなく目に見える部分だけで勝負するのとでは、手術の質は大きく左右されることになるのです。
日本の現代医療においては、ともすれば専門性だけが深く追求されようとする傾向が否めませんが、医療においては各科との横の連携も大切であることを忘れてはならないのです。
ドイツでは学問的にも学ぶべきことが多かったのですが、まずその生活の豊かさに驚かされたものでした。生活環境、時間的な余裕、医療の質。どれをとってみても、今の日本よりも30年前のその時のドイツのほうが豊かであるように思えてなりません。
ハイデルベルグ大学の病理学教室には、200人ほどの医師や技師が在籍していました。その当時、大阪大学の病理学教室には医師が7~8人いたでしょうか。職員5、6人を加えても20人ほどの所帯で、ハイデルベルグに比べれば実に10分の1にすぎません。病理に厚いドイツの医療体制に圧倒される思いでした。
また、留学中にドイツでは100体ほどの解剖を経験することができました。当時、日本の病理学専門医の認定は解剖20体というものであったので、帰国後、病理専門医の認定申請をしたところ、却下されました。ドイツでの経験は認められないというのです。
あれから30年が経ち、これだけのグローバル社会となった現代、日本の医療行政の閉鎖性はどれだけ改善されていることでしょうか。

<2012/8/10 掲載>

(このコラムは、2009年 株式会社 悠飛社発行 塩﨑 均著 「天を敬い、人を愛する」を、著者のご厚意により、当サイトへの転載を許可頂いたものです。)