第2回「第1章 性格と人格」2012:05:25:05:24:53

近畿大学学長 塩﨑 均

心を閉ざした少年時代

 人間というのは、当然のことながらそれぞれが違う親から生まれ、違った環境で育ちます。個々のそれぞれが、もって生まれた性格を備えているのもまた当然のことで、その生まれつきの性格がたとえどのような性格であれ、それはそれでしかたのないことだといえましょう。
 私の場合についていうと、子供時代の性格はひじょうにというか、むしろ異常なまでの恥ずかしがり屋で、とりわけ対人関係には自信がもてず、自他ともに認める「暗い」子供でした。
 小学生の時の成績表に書かれていたのは常に「消極的である」という言葉であり、その言葉は中学生になると、単に「消極的である」という言葉ではもはや表現しきれなくなった教師が、「何を考えているのかわからない」という言葉に置き換えて記すようにさえなりました。
 しかしそのような性格に生まれついたことは、私にとってはあまりにも自然なことで、その「暗さ」の呪縛から自分が逃れるすべはないのだと思っていました。後年、自分の子供の授業参観に行った折、自分の遺伝子を受け継いだはずの子供が、ごく普通に先生の質問に手を挙げて答えているのを見て、ひどく驚いたものでした。先生の質問に自発的な挙手で答えることなど、その当時の私にはとうてい考えることもできないような行為だったからです。
 私の故郷は和歌山県の新宮市という町です。兄二人、姉二人の五人兄弟の末子として小学校、中学校、高校時代は、常に兄姉の保護と影響の下で育ったのでした。「暗い子供」「何を考えているかわからない」と言われ続けることが、子供心に楽しかろうはずはありません。鬱々と心を閉ざしたまま、少年時代から思春期にかけての時間は故郷の町に流れていったのでした。
 けれどもきわめて不思議なことなのですが、私自身の心の中に自分が暗くて鬱々としていたという認識はほとんどありませんでした。積極的に周囲と関わり合ったり、学校で人目を引いて目立つような行為をする同級生がいても、それは別段うらやましいことでも何でもなかったのです。おそらく自分の感覚がまだ目覚めていなかったというべきなのかもしれませんが、人は人、自分は自分。自分自身の立ち位置として、変えようにも変えようのない自然なものだと受け止めていたのでした。

生命に満ちあふれた中で

 故郷の町、新宮市は、熊野の河口に臨む南紀の風土です。製材業が盛んで、河口には吉野や熊野の山奥から伐採され、熊野川を流されてきた材木を貯留しておくための貯木場がありました。
 人間の社会にあっては他人との関係を結ぶことにおいて不器用そのものの私でありましたが、人間以外の生き物、とりわけ昆虫や魚や小動物の世界では、それこそ水を得た魚のように生き生きと活動することができました。川と海の合流地点の河口は、川の魚もいれば海の魚もいるという生物の宝庫のようなところで、そのような恵まれた環境の申し子として、えびやはぜやうなぎなどの魚を捕ることにかけては、子供の頃から誰にも引けをとりませんでした。
 生命の神秘のようなものをはじめて身をもって感じたのも、こうした少年時代のことでした。製材所には木の削りかすであるおがくずがたくさんあるのですが、そのような環境を好んでかぶと虫などの昆虫がたくさん卵を産みつけます。魚と同様に、ここは卵から孵った幼虫やさなぎの宝庫なのでした。
 子供のことですから喜んでさなぎをいじくり回し、知らず知らずのうちにさなぎの体のどこかに小さな傷をつけてしまう、ということもあります。そうすると成虫になっても、たとえば羽がまがっていたり角がまがっていたりして完全な形を形成することができなくなってしまうのです。
 本来ならばさなぎとしてひたすらじっと過ごすべき時間をそうさせず、不必要にさわったり、移動させて無理に環境を変えたりすることによって、後に想像もしなかったような傷となって残るのです。生命のそういった微妙な神秘、巧妙な仕組みを自分の手と目で経験し実体験することは、後に医師となって命のあり方を考えるときに大きな影響を与えていると思います。
 昆虫の幼虫が育っていく過程は、羊水の中で次第に形成されていく人間の胎児の成長の過程と不思議と似ていました。生命の起源はその種その種で単独に独立しているのではなく、もっと遥かで深遠な要素をはらんでいることを思わせる世界に、少年時代の私はすでに存在していたのです。
 昆虫や魚だけでなく、犬猫や山羊にいたるまで、いつも何かしら命あるものと接している私を見て父親はよく言ったものでした。「虫や魚は殺しても死んでも赤い血が出ない。犬や猫は怪我をしたり殺すと赤い血が出る。それは子供が命の大切さを知る貴重な経験なのだ」と。
 子供は、昆虫や魚で遊ぶことが多々あります。その中で、ふいに手のひらで握ってしまった昆虫を殺してしまったり、釣った魚を袋に入れて家に持ち帰ったら死んでしまっていたりすることを経験することになります。昆虫や魚をたとえ殺してしまったとしても、赤い血が出なければ、子供心に深い傷を負うことなく、命の大切さを自然から学びとっていくことができるのです。昆虫や魚はいわば、身をもって生命の大切さを教えてくれる、身近で貴重な存在だというわけです。
 父の持論にならえば、無数の昆虫や魚たちによって、私は命の尊さに目覚めさせてもらったことになります。そしてその持論は、決して間違っていなかったといえるでしょう。というのは、たとえそれがどんなに小さな虫でも鳥でも、その生命が失われることについてはひじょうな恐れや悲しみを抱かずにはいられない、そんな経験をしながら私は育ちました。

切手の世界

 生命とのふれ合いに満ちた少年時代は、命の大切さ、尊さを私の心にしみ込ませましたが、私が医師になろうと志したきっかけは他にもありました。昆虫や魚やその他の身の回りにいつもいた動物たちとともに医師へと私を誘ったもの、それは切手の世界でした。
 魚捕りにおいては名人であった孤独な私のもうひとつの趣味は、小学四年生くらいから始めた切手の収集でした。日本国内の切手よりは外国の切手のほうが好きで、とりわけボルネオ、スマトラ、インドネシアなどの切手には動物の絵柄が多く、生き物が好きな私の心はわくわくさせられたものでした。
 収集といっても小学生の身では購入するにも限界があります。そこで、中学生になって英語を習うようになるとすぐに、もっと効率的に外国の切手を集められる方法を見出しました。少年雑誌にそのような欄を見つけ、私と同じようにいろいろな国の切手を集めているペンフレンドを得たのでした。
 そうこうして世界中の切手を集めることに熱中しているうちに、次第に夢は世界へ向けて駆け巡り始めました。そしてそのうちに、医者になって未開発の国に赴けば、自分の技術を提供して現地の人々を助けることもできるし切手も集められる。一挙両得ではないか、と考えるようになったのです。
 今この年でこのような話をすると、まるで笑い話のように思われることもしばしばですが、閉ざされた世界の住人であった当時の私にとっては、真剣そのものの考えでした。

世界の広がり

 そのような少年時代と故郷をあとに、大学では大阪へ出ることになりました。そして私に変化が訪れたのです。
 新宮というのは、大阪に比べれば小さな町です。私が何をしてもどこへ行っても、それは必ず人の目にとまりました。兄姉が多かったこともあって、それらの情報はすぐさま家族に伝えられ、私が家に帰る前にはすでに私の行動が伝えられていることも珍しいことではありませんでした。
 またそのような現実は、私にとってもごくごくあたりまえのことでした。なぜなら、それが私が小さな頃からずっと慣れ親しんだ世界で、むしろそうでない世界など想像することができなかったからです。
 けれども大阪は大都会でした。私が何をしようがどこへ行こうが、そんなことに頓着する者は誰一人としていませんでした。何をしようがどこへ行こうが、わたしは自由だったのです。かつてない解放感に私は、自分を包んでいた硬くて重い殻がばらばらと音を立ててはがれていくような思いでした。
 加えて、大学へ入ると同時に始めた合気道は、思わぬ現実を私に見せてくれることになりました。都会ではじめて会った人々はみな、私が考えていたよりもずっと「ごくごく普通の人」だったのです。
 故郷の町で私が想像していた都会の人たちは、私など足元にも及ばないようなすばらしい人たちで、誰もがみな優秀な頭脳と運動神経を兼ね備えていました。けれども実際に走ったり球技をしたりしてみると、大体のことにおいて私の方がずっと上手にこなすことができたのでした。
 それまでずっとあたりまえだと思って過ごしてきたこと、自分は何のとりえもないつまらない人間で、声を上げて物申すには値しない人間だということ、小さくて狭い世界が自分には相応であると思い込んでいたこと。それらは何の根拠もない勝手な思い込みで、実際はそうではないかもしれないのでした。
 はじめて気づいた思わぬ現実は、私にとっては衝撃的な出来事であるとともに、ひとつのことを私に認識させました。
「ああ、なんて狭くて暗い世界に私は住んでいたのだろうか。私の少年時代はなんと楽しくなかったのだ」と。
 今までは、いつもそういうことが自分にはふさわしいのだと思って消極的に過ごしてきました。息のつまりそうな周囲の視線をはばかりながら、地味に目立たないようにやり過ごしてきました。けれど、自分はもっとはばたくことができる。もっと自由に呼吸をしてもいいのだと気づいたのです。
 私という「性格」が、私という「人格」を形成し始めた瞬間でした。

性格と人格

 性格と人格というのは、同じようなものだと思われる方も多いのではないかと思います。けれども性格と人格はそれぞれ別のものだと私は考えるのです。もともと人間には生まれつき個々にもっている「性格」があります。その性格というコアの外側に、経験や実践というさまざまな変革がまぶされ積み重ねられていくことによって、「人格」というのは形成されていくのです。
 私の場合のように、自己をはっきりと認識できるようになる高校を卒業するくらいまでは、人間というのはもって生まれた「性格」を中心に生きていくものでしょう。それはそれでしかたがないことですし、生来の性格が自分の気に入るようなものでなくても、何も悲観することは決してありません。その後の経験の積み重ねによって、いくらでも変えていくことができるのですから。
 かつての私のように、自分が消極的だからとか、根暗な性格だからといって悩んでいる方は、案外多いのではないかと思います。けれどもそんなことで悩む必要は全然ないのだと、私は言ってあげたい。性格は、後々の過ごし方によっていかようにも変化させることのできる、単なる核に過ぎないからです。
 むしろ肝心なのはもともとの性格を認識するようになったその時に、そこから逃げないことです。たとえもって生まれた性格が自分の手に負えないように思われる時でも、現実にきちんと正面から向き合って、辛いこともいやなことも積極的に取り入れる努力をすれば、必ずや違った人格が形成されていくはずなのです。
 いやなことから逃げようとすると、それなりの人格しか形成されません。人格というのは、いわばその人の努力の証なのだということもまた事実でしょう。世間では人間の優れた、懐の深い人のことを「人格者」と呼びます。しかしたとえ「人格者」と呼ばれる人であっても、最初から「人格者」であったわけではありません。その人がたどった道と、その道をたどるために要した尽力の結果、「人格者」という呼称を手にすることができるのです。
 つまり人間は最終的には後天的に形成された人格で評価されるのですから、先天的な性格のことで思い悩む必要などありません。その代わりに、人格の形成にはできうる限り心と力を尽くしたいものです。

<2012/5/25 掲載>

(このコラムは、2009年 株式会社 悠飛社発行 塩﨑 均著 「天を敬い、人を愛する」を、著者のご厚意により、当サイトへの転載を許可頂いたものです。)